小山恩さんの絵本作品
2006年 03月 05日
Tシャツのデザインや本の挿絵、看板のイラストレーション・デザインを手がけている小山恩さん(Kindness Hill)が、絵本の作品を作りはじめた。現時点でもすでに6点ほどあるようだ。
これは印刷物として出版するということではなくて、手描きのイラストを自ら製本して絵本に仕立てるもので、すべて一点ものです。独自の世界観と手作りの暖かみが伝わる作品なのだけれど、さすがに「原画」を直接本にしてしまう(!!)ものだから、出版はもちろん他の媒体に転用したりして、多くの人の見てもらうというわけにはいかない。
3/3(Fri)から17(Fri)まで浜松市の「カフェ・オルガンサン」にて展示をしているが、それだけで終わってしまうのはあまりにも惜しい。
そこで、恩さんとのコラボみたいな感じのプロジェクトとして、イラストをスキャンした電子データと原文のテキストを提供してもらい、その絵本作品をFlash化してWeb公開することになった。
最初は絵をちょこっと動かしてみたり、音を付けたりしてはどうかといった、Flashならではの表現方法も視野に入れて話をしていたのだが、やってみると既に出来上がっている作品世界に余計な尾ひれを付け加えるだけで、作品の本質そのものには必要がない、あるいは、調和しないものを感じた。アニメートさせるのであれば、はじめからそれを前提として作家と協力して取り組まないと、結局は安っぽいものになってしまう。仲間内では「かわいいね〜!」なんていってもらえても、それじゃまずいだろう。
結局、コラボレーションとは言っても、絵と文章といった作品そのものは恩さんのオリジナルのままを尊重し、僕はそれをWeb上で提供するための舞台装置としてのFlashを作ることに徹した方がよいという判断に達した。それなりに知恵を絞ったことはあるけれど、それは見る人が見れば分かるだろうし、作品そのものをアシストする意味においてのみ価値があるものだ。「余計なことはしない・やり過ぎはかっこわるいことだ」。それは僕自身が鉛筆画作品を描くときにもいつも思うことじゃないかと。とまあ、そういうことになった。
恩さんの生い立ちについて詳しくは知らないけれど、母親を亡くした経験を持つせいか、生命や他人に対する優しさ・慈しみのような感覚に独特のものを持っているようだ。無償の愛情を注いでくれるはずの存在を失った時、その損失を受け止めきれずに引きこもる人もいれば、その反動として外へ向かって暴発していく人もいる。一見普通に見えても複雑に屈折していて恐るべき歪んだ人生観を持つようになる人もいる。でも彼女はそうはならなかったようだ。
誰かに与えられて来たものを失った時、今度は、自分自身がそれを他者に対して与える側の人間になっていこうという意識を持っていく...そういう立派な思想を持った人物は時々いる。でもいまの時代、そういうのが他のものとごっちゃにされて、かえってわざとらしく見えたり、「何か裏があるんじゃないか」と揶揄されたりするのは悲しいことだ。素晴らしいものも美しいものも、あまり一所懸命にならず、何となく軽い「笑い」に持っていってしまうような傾向も、どうかと思うことがある。
恩さんの作品は、一作ごとに画風や内容は異なるけれども、どれもそれぞれにイノセントな精神性が流れている。人によってはもっとひねりや明確なオチがあった方が作品として良いのではないか、という批判もあるかもしれない。まあ、それも間違いではないかもしれないのだが...
でも僕は相当ひねくれてる方の人間だが、むしろそれゆえに、単純にそうとは思えないものがある。
まだFlash化していない作品もあるし、今後も新作を描き続けるつもりであるとのことだった。一面的な批評はまだ時期尚早だと思う。いままで言って来たのは単なる個人的な感想だ。
これは印刷物として出版するということではなくて、手描きのイラストを自ら製本して絵本に仕立てるもので、すべて一点ものです。独自の世界観と手作りの暖かみが伝わる作品なのだけれど、さすがに「原画」を直接本にしてしまう(!!)ものだから、出版はもちろん他の媒体に転用したりして、多くの人の見てもらうというわけにはいかない。
3/3(Fri)から17(Fri)まで浜松市の「カフェ・オルガンサン」にて展示をしているが、それだけで終わってしまうのはあまりにも惜しい。
そこで、恩さんとのコラボみたいな感じのプロジェクトとして、イラストをスキャンした電子データと原文のテキストを提供してもらい、その絵本作品をFlash化してWeb公開することになった。
最初は絵をちょこっと動かしてみたり、音を付けたりしてはどうかといった、Flashならではの表現方法も視野に入れて話をしていたのだが、やってみると既に出来上がっている作品世界に余計な尾ひれを付け加えるだけで、作品の本質そのものには必要がない、あるいは、調和しないものを感じた。アニメートさせるのであれば、はじめからそれを前提として作家と協力して取り組まないと、結局は安っぽいものになってしまう。仲間内では「かわいいね〜!」なんていってもらえても、それじゃまずいだろう。
結局、コラボレーションとは言っても、絵と文章といった作品そのものは恩さんのオリジナルのままを尊重し、僕はそれをWeb上で提供するための舞台装置としてのFlashを作ることに徹した方がよいという判断に達した。それなりに知恵を絞ったことはあるけれど、それは見る人が見れば分かるだろうし、作品そのものをアシストする意味においてのみ価値があるものだ。「余計なことはしない・やり過ぎはかっこわるいことだ」。それは僕自身が鉛筆画作品を描くときにもいつも思うことじゃないかと。とまあ、そういうことになった。
恩さんの生い立ちについて詳しくは知らないけれど、母親を亡くした経験を持つせいか、生命や他人に対する優しさ・慈しみのような感覚に独特のものを持っているようだ。無償の愛情を注いでくれるはずの存在を失った時、その損失を受け止めきれずに引きこもる人もいれば、その反動として外へ向かって暴発していく人もいる。一見普通に見えても複雑に屈折していて恐るべき歪んだ人生観を持つようになる人もいる。でも彼女はそうはならなかったようだ。
誰かに与えられて来たものを失った時、今度は、自分自身がそれを他者に対して与える側の人間になっていこうという意識を持っていく...そういう立派な思想を持った人物は時々いる。でもいまの時代、そういうのが他のものとごっちゃにされて、かえってわざとらしく見えたり、「何か裏があるんじゃないか」と揶揄されたりするのは悲しいことだ。素晴らしいものも美しいものも、あまり一所懸命にならず、何となく軽い「笑い」に持っていってしまうような傾向も、どうかと思うことがある。
恩さんの作品は、一作ごとに画風や内容は異なるけれども、どれもそれぞれにイノセントな精神性が流れている。人によってはもっとひねりや明確なオチがあった方が作品として良いのではないか、という批判もあるかもしれない。まあ、それも間違いではないかもしれないのだが...
でも僕は相当ひねくれてる方の人間だが、むしろそれゆえに、単純にそうとは思えないものがある。
まだFlash化していない作品もあるし、今後も新作を描き続けるつもりであるとのことだった。一面的な批評はまだ時期尚早だと思う。いままで言って来たのは単なる個人的な感想だ。
by celtcelt
| 2006-03-05 12:33
| 展覧会情報